「三笠宮崇仁親王殿下と関西オリエント協会」
1)殿下との出会い
1982年、私は神戸異人館のデベロッパーとしてアメリカンハウスをオープンしました。
当時、ユダヤ系アメリカ人のジェイ・グラック氏のご自宅を訪れる機会があり、壷や絨毯など多くのペルシャの秘宝を見せていただきました。
彼の家にあっても、宝のもちぐされになってしまうのでは?
こんなにす立ばらしい物ならぜひ見たいという方がきっとたくさんいらっしゃるだろうと思い、
ジェイ・グラック氏を説得して、秘宝を展示したペルシャ館を1982年にオープンしました。
ペルシャといえば、オリエント学です。
日本オリエント学会の名誉会長であらせられる三笠宮殿下とお食事をする機会に恵まれ、私はそのとき初めて殿下にお会いしました。
とても緊張していたのですが、殿下は意外にも気さくな方でした。
ペルシャ館をご見学くださったときに、殿下がポーチをお忘れになったのです。
社員が探したときは見つけることができなくて、三笠宮殿下自ら走って探しに行かれました。
今、思い出しても冷や汗が流れますが、社員を叱るわけでもなく、自ら走ってお戻りになられ、優しくお許しくださった殿下のお心には涙が出るほどでした。
2)ご冗談がお好き
ご一緒に北野を散策していましたときに、風見鶏の館に御案内をいたしますと「ここは中曽根さんの町ですね」とおっしゃいました。
中曽根さんというのは元総理のことで、”風見鶏”というニックネームがあったのです。
まさか、そんなご冗談をおっしゃるとは思いもしませんでした。
また、三笠宮殿下はラムのお肉がお好きでしたが、私は大嫌いだったので「ラム肉がお嫌いな奈津子さんは、中近東へは行けませんね」などとご冗談をおっしゃられたこともありました。
3)背中を押してくださったこと
日を増すごとに三笠宮殿下と親しくなり、お話が盛り上がり、「神戸オリエント協会をおつくりになられてはいかがですか?」とまで私におっしゃられたことは、本当に驚きでした。
当時若かった私は会長の器ではなかったので、ダイエーの中内功さんに神戸オリエント協会の会長になっていただけないかと、お願いに参りました。
中内さんはすぐにOKをくださり、「よくすぐOKしましたね!」と周りの皆さんが驚かれるほどでした。
会長に中内さん、副会長にUCCの上島さん(中内学校の生徒さんでした)と私が就任することになったのです。
神戸オリエント協会の発足式には、三笠宮崇仁親王殿下をはじめ、陳舜臣さんも講演をしてくださいました。
三笠宮殿下が背中を押してくださったことで、私は大きく前進できたのでした。
4)ジルバのお約束
私は神戸北野町でレストラン「カサブランカ」を経営していたのですが、三笠宮殿下は何度もいらしてくださいました。
生演奏でご一緒にダンスをしたこともありました。そのとき、ジルバがおできにならなかった三笠宮殿下が「今度来るまでに覚えてきます」とおっしゃられたのですが、私は本気にしていませんでした。
ところが数ヶ月後にお会いしたときには、ちゃんと踊れるようになられていて、本当にびっくりしました。
アイススケートをされていたりして、運動神経も研ぎ澄まされていたのかもしれませんが、お約束はしっかりと守られる方なのだと実感したできごとです。
5)純粋なお心
お話の中で、殿下が動物園に行ったことがないとおっしゃったので「では次回は阪神パークにお連れしますね」と申し上げました。
阪神パークの中まで車で入ったのですが、「奈津子さん、ほら、ゾウさんが、キリンさんが」とまるで子どものようにおはしゃぎになり、心から喜んでおられるご様子に、私も感激いたしました。
6)律儀なお電話
そんな殿下に、何をプレゼントしたらお喜びになるだろうかと私なりに考えた結果、夢を買う「宝クジ」をお贈りすることにしました。
何度かプレゼントしたのですが、「神棚においておきます」などとおっしゃられました。
そして、いくらか当選されたときには、律儀にお電話をくださいました。
現在のように携帯電話があるわけではないので「三笠宮ですが、ダマ奈津子さんはいらっしゃいますか?」
と会社に電話をして来られました。
社員は驚いて、直立不動になったものでした。
7)お金を払ってくださったこと
お食事に行くときに何がいいかとお伺いしますと、「美味しかったら何でもいい」とおっしゃいます。
お食事のあと、帝国ホテルの地下の喫茶店に入ったときのことです。
「私に払わせてください」と殿下がおっしゃいました。
なんと、殿下にごちそうになってしまったのです。
8)流通の王様も緊張
中内さんと3人でお食事をしたときのことです。
緊張しすぎた中内さんが、まだお食事を終わられていない殿下に向かって「本日はありがとうございます」と挨拶をされたのです。
私はあわてて「殿下はまだお食事中ですよ」と申し上げたのですが、流通の王様と言われた中内氏でさえも殿下の前では緊張されるのだとわかり、微笑ましく思ったものでした。
9)SP
東京ではSPをつけないとおっしゃる殿下ですが、他の土地では、何かあると大変ですのでこっそりSPの方が付いてこられます。
殿下が席をはずされた時に、私にこっそりと「今日はどこへおいでになるのですか?」と聞かれることが何回もありました。
10)ほめ上手
殿下にお会いするときにおしゃれをして行くと、殿下は必ず「きょうのお洋服は素敵ですね」などとほめてくださるのです。
とてもいい気分にしてくださいました。
私が「殿下は素敵なお声をされていますね。どうしてそんなに声が通るのですか?」とお聞きしましたら、陸軍で声を出すことを日常の訓練としておこなっていたからだとおっしゃいました。
11)水との縁
住友金属の子会社経営の「ザ・シティクラブ備後町」のオープニングパーティーで、各会の著名人がお集りになったときのことです。
当時、大阪府知事の岸知事がご挨拶されていたときに、天井から水がポタポタと落ちていることに気がつきました。
私はとっさに植木鉢をその下に置くように指示をしました。
三笠宮殿下のご挨拶が始まると、ますます落ちる水の量が多くなり、皆が青くなっていました。
後で謝罪に伺うと、「あれは演出ではなかったのですか?私はとても水に縁があり、飛行機に乗ったときも、天井から水が落ちてきた事があるのですよ」などとにこやかにお話しをされ、救われたものです。
決して人を責めたりなさいませんし、こちらが落ち込んでいると明るい言葉で励まして下さいました。
人として心から尊敬できる方だと思います。
12)フレンドリーなご発言
東京三鷹に財団法人中近東文化センターがあります。
三笠宮崇仁親王殿下のご発意のもと1979年に開館されました。50人ほどで見学に行ったとき、展示を指差しながら三笠宮殿下が解説をされていました。
皆がお話に聞き入っているときに、「お手洗いに行かれたい方は、そこを曲がったらありますよ」とおっしゃるので、ドッと笑いがおこりました。
そんなフレンドリーな一面のあるお方なのです。
13)東京御所での初体験
三笠宮殿下のお住まいである東京御所にお招きいただいた時には、女官の方が、30分おきにお飲物をお持ち下さいました。
最初は日本茶、そして次は紅茶というように、お気遣いをいただくのです。
”おかき”をお出し頂いた時も、器からスプーンでとってから手で頂くという、上品な初体験をいたしました。
”おかき”はお皿から直接頂くものだという概念がくつがえされた瞬間でした。
14)悩み相談
米国の大学から名誉学位授与のお話があった時、三笠宮殿下は一度お断りになられました。
そしてその件について私に相談をされ、お手紙までいたことがあります。
そのお手紙は今も大切においてあり、なにかあるたびに、読み返しております。
殿下はご自身の名誉よりも、国と国との関係を重視され、行動をおこされる際にも思慮深く、言葉の端々に思いを感じとる事ができ、お手紙を何度読み返しても感慨深いものがこみ上げるのです。
一時期はご子息の事をご心配されていて、父親としての一面も拝見した事がございました。
そのような相談もして下さった事が、私にとっての思い出であり、そのように親しくして下さった事が、私の人生の最高の幸せだと思っています。
15)食べ過ぎ?
三笠宮殿下はお魚、特に鮎がお好きでした。
「鮎の食べ過ぎでは?」と料亭の女将が心配をして声をかけるほどに、鮎をたくさんお召しに上がられたこともありました。
皇室のかたといえども、普段は私たちと変わらないと言うことに、感激したこともあります。
16)謙虚さ
オリエント学の講演をされたときには、講演後に私に「本日の講演は如何でしたか?」と毎回お聞きになられたものです。
いつも素晴らしい講演をなさるのに、そのような確認を私にされるということが意外で、失礼な表現ですが、とても謙虚でかわいいかただという印象を受けました。
17)震災
阪神淡路大震災の時には、とても心配してくださいました。
何度も携帯にお電話をいただいたそうなのですが、なかなかつながらず、やっと十日後に私が上京した際に携帯に電話がつながり、「明日いらっしゃい」とお電話をくださいました。
私たちが伺うと、殿下と妃殿下が出ていらっしゃって、とても心配そうな面持ちで話を聞いてくださって、感激いたしました。「関東大震災の時、ピアノが飛んできたりして、自分も震災を体験したので、怖さがわかります」とおっしゃってくださいました。
18)明日
娘には何度も会ってくださっていたのですが、息子がスイスに居たため、お会いするチャンスが長い間ありませんでした。
ですがある時、息子夫婦に「一度お目にかかりたいのですが」とお電話したら、なんと「ぜひ明日来なさい」とおっしゃってくださったのです。
実際に息子夫婦は翌日お会いする事ができたのです。
相手のことを第一に考えてくださるそのお心の広さには、いつも驚かされていました。
19)祈り
そんな風に長い間親しくさせていただいたのですが、今年(2012年)になってからご連絡を差し上げた時に、初めてお会いしに行くことを断られました。
30数年間一度も断られたことは無かったのですが、どうしてだろうとずっと気になっていましたら、数ヶ月後に寛仁親王殿下がお亡くなりになられたことを知らされました。
きっと寛仁親王殿下のお体の調子がお悪かったのでしょう。
その後、三笠宮殿下ご自身も入院をました。
入院されたと聞いた日は一睡もできず、この30数年間の思い出が、走馬灯のように頭に次々と浮かんでまいりました。
20)悲しみ
その後、亡くなられた時には多くの報道陣が、私のところに取材に来られましたが、たくさんの思い出がよみがえり大変辛かったです。
ご冥福をお祈りいたします。